宗園院標語
地蔵堂にて張り出している標語などをこちらでも紹介いたします
- ひとりでも 行かねばならむ 旅なるを
弥陀に引かれて 行くぞうれしき
生を受けたならば、死はみなに等しくおどずれます。
その先に向かう道は長い長い独り旅となるか、阿弥陀さまに連れられて往くかは
今生での行いで変わります。仏の教えに触れて安心(あんじん)を得てください。
- もし縁なくして施しができない時は
他の人の施しに随喜の心を持つがよい
それは自ら施すに等しい
知人が何かしら良いことをしたその時に「良いことをしたね、徳を積んだね」と知人の行為を共に喜ぶことで自身も同様の功徳を積むことができます。これを随喜(ずいき)といいます。随喜の心を起こすだけで相応の功徳を積むことができます。しかし、知人の行為を妬んだり疎ましく思ったりすることで、功徳を積む機会を自ら放棄することになります。勿体ないことこの上ないですね。
- 因は決まっている
縁は動いて無量無限
縁を掴み捉えれば
果は自然とゆたかになる
仏教ではこの世は因縁果で成り立っていると説きます。
縁を「条件」と解釈するとわかりやすいかと思います。あらゆる条件が重なってあらゆる結果に結びついていくのであれば、よい条件となるべく、行動をすることが必然的に求められます。
- 悪事はしないに越したことはない 悪事はのちになってから後悔する
善事はするに越したことはない それをしてのち後悔するということがない
ダンマ・パダ 三一四 - 真理を飲料とする人は、澄んだ心をもって快く眠る
賢者はつねに、聖人によって説かれた真理を楽しむ
ダンマ・パダ 七九 - 風は見えないけれど
風のすがたは なびく草の上に見える
大江淳誠
風を描いてと言われても困難でしょう。風は眼には見えません。しかし風が吹くと辺りがたなびいて音が聞こえて香りを運んできて身体に触れて、とあらゆる感覚で風を感じることができます。
眼には見えなくても実体はなくても風は縁(条件)によって確かに存在いたします。
- 積み上げた花からいろいろな花輪を造ることができるが如く
人として生まれた上は多くの善事をなすべきである
ダンマ・パダ 五三
- いそげ人 弥陀のみ舟の 通う世に 乗り遅れなば いつか渡らん
聖徳太子
聖徳太子さまは中国から伝わった仏教を日本に広めて日本仏教の礎を築かれました。
阿弥陀さまは常に私たち衆生を導いてくれています。
私たちがそこに気づき、阿弥陀さまの救いの手につかまれるにはどうすればよいか、
を考えて行動することが大切です。
- ある人は人間のお胎に宿り
悪をなした人は地獄に落ち
正しい人は天界に上り
煩悩のない人は涅槃に入る
ダンマ・パダ 一二六 - 日が悪かろうと
印相が家相が墓相がどうあろうと
何が憑こうと祟ろうと
如来さまは常に我を
どのような状況にもかかわらず如来さまは常に我々を見ています。
わたしたちが気づいていないだけですね。
困った時、困難に出会った時、如来さまにお尋ねされてはいかがでしょう。
とくに困難もなく穏やかな日常を過ごされている方も如来さまに感謝を伸べてはいかがでしょう。
常に如来さまが居ることで安心(あんじん)を得ることができます。
- 人は生まれによっていやしい者となるのではなく
生まれによってバラモン(聖者)になるのではない
行いによっていやしい者となり、
行いによってバラモン(聖者)となる
スッタニパータ136
ブッダが遊行をした地はとても貧しくて、身分差別がとてもはげしい地でありました。
カーストでの最下位の者たち、カーストに入れない者たちに「わたしの教えにそって暮らしていけばみんなやがては等しく救われる」という言葉はどれだけ大きく届いたことでしょう。
- 人生は思った通りには動かない
行動した通りにのみ動く
世の中全てが自分の思い通りになるなんてことはございません。
しかし、自分が行動を起こすことであらゆる道につながっていきます。
はじまりを原因の「因」と呼びその結果を「果」と呼びます。
その過程全てが「縁」になります 行動、働きのことです。
どの道を選ぶのか、そこにどれだけの力を込めるのか、その働きによって果が導き出されます。
行動した通りにのみ動くとは因縁果を表しています。
令和4年最後の標語です どうぞ徳を積む選択肢を選び行動してください。
- 勝利は怨みを生じ、敗者は苦しんで臥せる
心のしずまった人は、勝敗をすてて安楽に暮らす
ダンマ・パダ 二〇一
相手に勝った、負けた、対象より勝れている、劣っている、という考えは全て邪(よこしま)であり
煩悩がもたらすものであります。
正しい教えを求め知る者は、心を統一してすぐれた智慧を起こして安らかさを得ています。
- 病は心の善知識
病気に罹ると苦しみが生じます
しかし病気のおかげで仏の知恵がはたらき、娑婆がわかり、人間がわかり、
そして自分の心の醜さや弱さもわかります 病気は沢山の事を教えてくれます
- いくら落ち込んでも ここにはいつも 光がさしこんでいる
いくら落ち込んでも ここには少し 光がさしてくる
という榎本栄一氏の言葉を少し変えて地蔵堂に張り出していました。
お堂には常に仏さまが居て絶えずに私たちに救いの手を差し出しています。
それをどのように受けるか、それは私たち次第です。
- お盆の味はふるさとの味 お盆の味はご先祖の味
わが家が受け継ぐ心の味 その味つけ人は仏さま
お盆の迎え方は地域での習いがあり、また各家庭での習いがあるでしょう。
お仏壇の整え方、御供え膳の盛り方や味つけの仕方、どのような恰好で迎えるのか、
家族皆で一緒に座ってお勤めするのか、一家の長だけが座るのか、僧侶をどのように迎えるのか。
お盆とは代々伝わる大切なものを後に伝え残す行事でもあります。
ご先祖さま、僧侶、来客などにもてなす心を大切にしてください。
- 本当に強い男(ひと)はやさしさを秘めている
本当にやさしい女(ひと)は強さを秘めている
- もしも賢明な仲間や、行動をともにする意思の固い賢者を得るならば
あらゆる危難を克服して、自分の意のままに思いをめぐらせて、その人とともに歩みなさい
スッタニパータ 四五
- 唯一の法を犯し 妄語を語り 来世を信じない人は
どんな悪でも行うものである
ダンマ・パダ 一七六
このように人間としての法を持たないもの倫理観を持たないものは
やがて自らの過ちによって自らの業に苦しめられることになるでしょう。
そして、その事にさえも気づかずにいることでしょう。
- 他人に苦を与えて、自分の楽を望むこのような人は
怨みの絆に結ばれて怨みより逃れることがない ダンマ・パダ 二九一
先月の言葉とは対照的な意味になります。
怨みの連鎖というのはそうそう断ち切れるものではありません。苦しみは長く続くことになるでしょう。
それにしても、国家至上主義というのは恐ろしいですね。
「国が栄え、その主たる自分さえ栄えたらそれでよい。国民が苦しもうが知ったことではない。」
傲慢の極みです。
- 人は利己的な心を捨てて 他人を助ける努力をすべきである
他人が施すのを見れば、その人はさらに別の人を幸せにし、幸福はそこから生まれます。
幸福はいくら分け与えても減るということがありません。
- 野生の鹿が、林野に餌を求めて縛られることなく、意のままに餌場に行くように、
道理をわきまえた人は、ひとりであることを観じながら、犀の一角のように、たったひとりで歩みなさい。
スッタニパータ三九
『ブッダのおしえ』新訳スッタニパータ犀の一角の経より引用。
他に依存しすぎない暮らしをいたしましょう。
人間は社会国家を形成し、人々で助け合いながら集団で生活をするようになりました。
それはつまり必ず他人と関わらなくては生きていけません。良い者もいれば良くない者もいます。
他人に依存しすぎることで、自らを見失い、傷ついてしまうことが多くあります。
一角の犀(サイ)の歩む姿は、恐れ無き勇猛果敢です。犀のように自立しましょう。
高野山大学時代、修行時代の教師前谷彰先生の訳著です。
スッタニパータでは犀の一角の項が好きなので今後も度々引用することでしょう。
- みほとけの み名を称える わが声は わが声ながら 尊なりけり
甲斐和里子
仏さまのご真言、お念仏を口にするということは、ただ音を発しているのではなく、
仏さまの御名を唱えて帰依することになります。
つまりそれは仏さまと自分とがつながっていくことになります。
姿勢を正し・手を合わせて・心を込めて・唱えるそのお姿はまさに仏さまそのものでしょう。
新しき年を迎えました。
みなさまの一年が仏さまと結ばれて安穏でありますように心よりお祈り申し上げます。令和四年元旦住職敬白
- さまざまな色や形・音や声・味・香り・感触は、
人々をすっかり夢中にさせるものである
ものごとに対する欲望・執着を追い払わなくてはなりません
スッタニパータ三八七
欲望(悪魔)は無限に沸き出てきます 見渡せば世間は欲望ばかりで成り立っています
私たちが心豊かに暮らしていくには、欲望に振り回されないように自制をしなくてはなりません
欲望に取り込まれて心が貧しくならないように心がけて過ごしていく必要があります
「容姿の美しさはいつか衰える 美しい生き方は一生かけて磨かれていく」
自分が美しいと思う生き方をしましょう
他人から見られて美しいと思われる生き方をしましょう
一生をかけて心を磨き上げましょう
せっかく仏道に出会ったのですから仏さまの心に近づけるように努力をしましょう
常に不平不満を口にし自ら煩悩を育て上げた人には、その煩悩が消えることは困難であり、遥かなる時間を有することでしょう。
周りにこのような人はいませんか、その人の愚痴に振り回され、やがてあなた自身が取り込まれたりしないようよくよくご注意ください。無理に合わせているうちに、気が付けばあなた自身がこのような人になっていませんか、同じくご注意ください。
私はこのような人は遠ざけています。そして改心させる必要もありません。
本人がこの因果にいつ気付くか、ということだけです。
人に情けをかける 人に親切をする ことはとても大切です。
そして、親切をして功徳を積むことが目的となります。
しかし「人に親切をしたのだから」とお返しを求めるのはよくないことです。
理由はそこに欲、執着、悩み、嫉妬、などさまざまな感情が生まれてしまい、
せっかく積んだ功徳が無くなってしまうからです。
現実世界では中々きびしいかとは思いますが、
見返りを求めるから争いが起きるという「原因」つまり「苦しみ」がはっきりしているので
「じゃあ争わないようにしよう、見返りを求めないようにしよう」と苦しみの種をのぞくのが仏教です。
仏さまとの語らいは仏さまへのお念仏でありご真言です
お盆はご先祖さまがお浄土から還って来られます
先ずは手を合わせてお唱えをしたのちに語らいましょう
仏さまは常に我々のことを憂いています
私たちがそれに気づき、心の汚れを除いて自己を浄めることが大切です
ダンマ・パダ第五章 愚か者 のはじめの句です。
第五章には胸にささるような厳しい教えが続いています。
今後も幾つか紹介しようと思います。
AIさんのSTORYより
日の光 森羅万象 日々新た
この世の全ては移ろい変わって行きます。昨日までは当たり前だった日常が、ある日突然に無慈悲で辛い日々に変わってしまうことがあります。そして辛い日々を迎えて憂いていても、周りは何事もなかったかのように当たり前に時が過ぎていきます。まるで自分だけが取り残されたかのように…。
でもきっと大丈夫、1人じゃないよ、あきらめないで共に歩もうよといった励ましの歌です。
すごく素敵な歌詞なので本当は全部を載せたいのですが、そうもいきませんので一部分だけにしました。
あなたが困難に直面した時に助けてくれる仲間がいますか 家族がいますか
一人で抱え込まず頼りなさい
たとえ近くに頼れるものが居なくても見えないどこかの誰かに頼り相談するのもよいでしょう
あなたの目の前には仏さまがいます 近くにはご先祖さまもいます 頼ってください
いつもはダンマ・パダもしくはスッタニパータから引用することが多いのですが、たまにはこういうこともいたします。仏さまもご先祖さまもいます。1人ではないですよ。
前回の内容の続きになります。
善と悪、清らかと汚れ、とは背反する二つのものが存在するのではありません。
善に転ぶこともあれば悪に転ぶこともあります。
時代によって、環境によって、またルールの変更によって入れ替わることもあるでしょう。
しかし、まことの姿においてはそのいずれでもありません。
コロナ禍で正義をふりかざす余り「正義の暴走」という言葉まで生まれてきました。
極端になりすぎることはとても恐ろしいことです。争いにつながってしまいます。
誰もがみな自分と同じ心ではないと理解をした上で、今自分ができることをなさってください。
- 荀子の言葉です
- 六方礼(ろっぽうらい) 令和三年一月三日の護摩供にて配布
新年初護摩供で参拝者へお配りしたものです。(葉書サイズ)今回だけ特別にこちらへも上げてみました。
このように毎月の護摩供ではその時の法話の内容を記したものを配布いたします。
余ったものは本堂内へ置いていますのでご自由にお持ち帰りいただいて結構です。
但し、郵送などはいたしておりませんので、ご了承くださいませ。
初日の出は拝めましたか?
太陽は東から昇ります
日の出は生命の誕生を表しますので、自分を産んでくれた父母、そしてそのまた父母、ご先祖さまを敬うことに繋がります 新しい年が始まりました 令和三年は穏やかな年になりますように
- 仏教聖典より
人々の心の作用によっては仏ともなりえますし鬼にもなりえます
修羅の世界はどこにあるの?地獄?仏の世界?? みな心の反映された世界です
正しい知恵と正しい見解で心を育てましょう
- 僧侶良寛が山田杜皐(やまだ とこう)へ宛てた手紙
- 飛鳥居昌乗 ほんものの信仰より
- ダンマ・パダ116
- ダンマ・マダ165